ここは「土蔵(どぞう)」という伝承地名で呼ばれ、「
相州津久井古城図」にもそのように記されている場所です。現地表で10.6m×5.8mの、長方形に並ぶ山石の石列が確認できていましたが、長い間、それがどのような遺構かは不明でした。そこで発掘調査をしてみたところ(
写真・全体図)、石列は一部が二列になっており、石列と石列の間には礎石のような川原石があることなどが分かりました。石列で囲まれた内側は、深さ50㎝以上も掘りこんだ後に人頭大の石や砂利、砂を詰め込んで地固めをしている様子がみられます(
写真)。その様子からは、しっかりとした基礎をもつ建物、つまり「蔵」のような建物が存在していたことがうかがえます。規模が、北条氏の領国で確認できる柱間寸法「六尺二寸五分」を使った六間×三間半となること、付近から戦国時代のかわらけが出土していることなどから、その建物は戦国時代に使用されていた可能性が高いと言えるでしょう。
この場所に、将来、休憩所を整備する構想があります。(
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