
塚山公園のシンボル按針塚は1620年平戸で病没したウィリアム・アダムスの遺言により逸見の領民たちによって、江戸城を望める逸見の山頂につくられたと考えられています。その後江戸幕府の鎖国政策により塚は放置された状態になっていましたが、明治の初め横浜在住のイギリス人の中でウィリアム・アダムスの遺跡や口碑を探したいと望む者が現れました。明治5年、貿易商ゼームス・ウォルタ氏が逸見村の浄土寺を尋ねてウィリアム・アダムス夫妻の塚を発見、修復を計画しました。逸見の人、港町1丁目富士山ホテル経営者安西善六氏は工費五十円を投じて協力しました。
その後明治21年、さらに明治39年、地元の鈴木福松氏が主宰して石川儀兵、鈴木惣右衛門、鈴木藤吉、鈴木忠兵衛、栗田万五郎氏が発起人となり神奈川県知事周布公平氏を動かし政府高官やイギリス大使サー・マクドナルド氏等名士の賛同を得て大改修を行い現在の史跡ができあがりました。逸見の人達には日本に初めて西洋文明をもたらし、この地に在住したウィリアム・アダムス(三浦按針)には格別の思いがあります。大正11年に鈴木福松氏等19名が私有地を塚山公園用地に寄贈しました。昭和初年には地元青年団が桜千本、ツツジ数百本、梅二百本を植栽しました。しかし終戦を境に、史跡は荒らされ花木は抜き去られ、つる草に覆われた公園は荒れ果てましたが、昭和29年、県立公園に指定されたことにより地元町内の人達によりさらに整備は進められました。
昭和41年10月1日、町内副会長小林雄氏は逸見の先人たちが永い間守り続けてきた塚山公園の史跡と自然を守ろうと、「県立塚山公園保存会設立趣意書」を全戸に配布し塚山公園保存会を設立し、町ぐるみの活動で日曜祭日毎に草刈り、植栽、清掃等を続けました。その後県当局により園路、水道、トイレ、休憩所、電灯、電話等次々と整備され現在に至りました。