伝承地名である「家老屋敷(かろうやしき)」という名前からは家老が屋敷を構えていた場所と受け止められますが、詳細は不明です。やや尾根状になっているところを削って作っており、この下にもまだ何段かの曲輪があります。山側をみると、かなり岩盤が多い場所に作られた曲輪で、平面形状はほぼ三角形をしています。ここでは、
石垣をみることができます(※実際に見るには危険を伴います。ここに挙げた写真でのみご覧ください)。
津久井城のなかで戦国時代のものと考えられる石垣が見られるのは、ここをはじめ
数か所がありますが、一番立派なのがこの家老屋敷の石垣です。戦国時代の東日本にはあまり石垣が発達しなかったといわれており、構造的に弱いため何段かに分けて構築することがしばしばで、近隣の
八王子城や、群馬県の
太田金山城にはこれとよく似た感じの石垣がいくつも作られています。近年の発掘調査では、東日本の城でも重要な部分に石垣が使われた城も多くあることがわかっています。
この家老屋敷の石垣は、曲輪の裾の、構造的に弱い部分に土留めとして構築されていたようです。曲輪の裾すべてが石垣ではなく、岩盤があるところには石垣はみられません。なお、石垣に使われている石には、この城山にある岩盤から切り出してきた
砂岩が用いられています。