津久井城について

はじめに

津久井城を知っていますか?
「城山」という山そのものを改造した、山城(やまじろ)のことです。戦国時代には北条氏の有力支城として、この地域一帯の統括拠点として機能していたことがわかっています。

「根小屋式山城」津久井城

城には置かれている地勢によって、山城、丘城、平山城、平城がありますが、独立した山に築かれたものが山城です。通常、山城は平地の面積が狭いために城主の居館や家臣の屋敷などを山麓に置きました。これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城といいます。津久井城は、根小屋式山城の様子を伝える関東でも屈指の城跡だといわれています。

津久井城の立地と歴史的環境

津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置しています。そして八王子から厚木・伊勢原・古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り津久井地域を東西に横断して甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前を流れていることなどから、交通の要衝の地でもありました。また、津久井地区はその豊かな山林資源から、経済的に重要な地域としても認識されていました。
 このように、津久井地域は、中世の早い時期から政治・経済・軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎ合いの場でもありました。

津久井城周辺地形図(○は根本・城坂。現在のパークセンター周辺)


津久井城俯瞰図(作図:守屋浩之氏)

津久井城の歴史

津久井城の築城は、鎌倉時代に三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族、津久井氏によると伝承されていますが、その詳細は明らかではありません。その痕跡が明らかになるのは、15世紀末頃です。戦国時代、小田原城を本城とした北条氏は16世紀中ごろまでには、相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展しました。そしてこの広大な領国を経営し、敵勢力から守るため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制を作りました。当時の津久井地域は甲斐国境に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城のひとつとして重要な役割を果たしていました。

天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方の関東の諸城も前後して落城しました。津久井城も徳川勢の本多忠勝、平岩親吉らに攻められ、落城したと伝えられます。落城の際に大規模な戦闘はなかったようです。落城後は徳川氏の直轄領になり麓に陣屋が置かれ、代官が政務を執っていました。陣屋は寛文4(1664)年に廃止され、そこで城山は地域統括拠点としての機能を終えることとなります。

津久井城に残る遺構

現在城山に残り私たちが目にすることができる遺構は、16世紀に整備されたものがさまざまな改築を受け、壊され、畑などで利用されてきた永い歴史の賜物です。ですが、おおよそのかたちは戦国時代の様子を残しているといってよいでしょう。遺構は、主に山頂付近と麓の根小屋にわかれます。
 山頂付近は西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯縄神社のある東峰の飯縄曲輪を中心に、各尾根に小さな曲輪が階段状に配置されています。

これらの曲輪には土塁や、一部には石積みの痕跡も残っています。また、山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3箇所に堀切が、山腹には沢部分を掘削・拡張した長大な竪堀が掘られています。飯縄神社の東下にある「宝ヶ池」と呼ばれる溜井は今でも水を湛えています。

「かろうやしき」に残る石垣

麓の根小屋は、根本・城坂、小網、荒句、馬込地区一帯に広がっていたと推定され、各地区で大小の曲輪が確認できます。特に根元・城坂地区には「御屋敷跡」、「馬場」、「左近馬屋」などの地名が残されており、津久井城の根小屋の中心と考えられています。

発掘調査でわかりつつある津久井城

根本・城坂地区では1996年から津久井町が、津久井城を解明すべく学術的に「御屋敷跡」と呼ばれる曲輪を中心に発掘調査を行なってきました。学術調査は相模原市にも受け継がれ、これまで「竪堀」「城坂南曲輪群」などの発掘調査で成果を得ています。また、道路敷設や公園整備にともなって(財)かながわ考古学財団によって「馬込」地点、「しんでん」地点、「代官守屋左太夫陣屋跡遺跡」そして山頂付近でも発掘調査が行なわれ、津久井城の歴史が徐々に明らかになりつつあります。

まず山麓部の調査ですが、「御屋敷跡」は津久井城主内藤氏の居館があったとされる場所です。発掘調査では、戦国時代の数回にわたる曲輪の移り変わりの様子が明らかになりました。遺構は掘立柱建物跡や焔硝蔵跡、空堀、土塁跡などが、遺物は貿易・国産陶磁器やかわらけ、金を精錬したと思われるかわらけ片などが見つかっています。

「御屋敷跡」と周辺の曲輪群

「竪堀」は「馬場」の東側に掘られたものですが、ジグザグで階段状につくられていることが確認されました。「馬込」地点は城の東側ですが、幅約8mの空堀などが発見されています。「しんでん」地点では土塁の開口部を通路とした虎口遺構が発見されています。「代官守屋左太夫陣屋跡遺跡」では津久井城落城後の大規模な礎石建物が発見され、江戸時代初頭に陣屋関連施設があったことがわかっています。鎧具足や瓦などの出土遺物があります。

御屋敷跡の遺構
山頂部の階段状遺構

山頂部では「本城曲輪」「米曲輪」「米蔵」「土蔵」などといった伝承地名をもつそれぞれの地点での発掘調査が行われました。歴史的事実を公園整備に活かすため、まずはどんな遺構が地下に眠っているのかを探る必要があるのです。「モン」「モンアト」との伝承が残る地点では、通路とみられる部分に石が敷き並べられていることが確認されました。一部では階段状になっている部分もありました。また、その他水路と考えられる石組の遺構や、土塁の縁に並べられた石、川原石が敷かれている部分など、興味深い発見が相次ぎました。

「城坂南曲輪群」では、市文化財保護課と市立博物館と津久井湖城山公園が手を取り合い、ボランティアによる市民協働調査を行っています。近年の調査では底面と洲浜に石を敷いた心字状の池を伴う池泉庭園も見つかり、これからの調査進展が期待されます。

以上みてきた発掘調査の結果からは、とても興味深いことがわかりつつありますが、全体を俯瞰すると、山麓においては戦国時代の痕跡だけでなく江戸時代初頭の陣屋としての機能も色濃く残っているにもかかわらず、山頂では戦国時代より後の状態が見られないことがわかります。「山城」としての津久井城は落城とともに破壊されて機能を奪われ、それ以後の山頂部への造作を禁じるかのようにまだ政情が不安定な江戸時代初頭に麓に陣屋が置かれたと考えることもできるのではないでしょうか。


おわりに

津久井城はその良好な遺存状態から、相模原市が、神奈川県が全国に誇ることができる城郭です。土の下には未知の遺構も眠っており、園内では毎年、市民協働調査による発掘調査が行われています。これからも新たな発見がなされていくことでしょう。

津久井湖城山公園では、津久井城南麓にパークセンターという津久井城=城山の案内・展示施設を設けています。最新の調査情報などを展示しておりますので、ご覧になって下さい。そしてぜひ、城山に登ってみて下さい。戦国時代の面影を、体感できるはずです。

(2020.07.21改訂)

2015年 市民協働調査 里山広場(城坂曲輪群5号曲輪) 池状遺構の検出状況